昭和49年11月11日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくと。私は合楽の信心はここのところに、ぴったりしておると思うですね。椛目合楽を通して、二十五年間ようもこれだけの教典ですから。たったこれだけの金光教の教典の中から、二十五年間いわば話しても話しても尽きぬほどしの話を、私を含めて皆さんが頂いてきたと言う事ですよ。
 そしてこれだけ説いたから、後はと言う事はなくて、恐らく一生私が掛っても、まだ説き得ないくらいじゃないかと思います。というほどしに神より、金光大神に尽きぬおかげを、話にして残しておくと言われておる、その話の内容というものは、そのように大変なものです。皆さん達は毎日いうなら二十五年間、お日参りをなさって続けておられる方達も、ここには幾らもおられましょうけれども。
 一遍だって同じ話を聞いた事はないでしょうが。これは私自身も驚きです。成程麻生さんが二年半病院に入られて、大体は根がこういう宗教書をあさったり読んだりなさるのが、お好きですからそれこそ大きな箱一杯。この頃から佐田さんがお見舞いにおいでられましたら、随分と言うなら世界中の宗教の本を、読んだと読破したと言うても良い位。かかって読まれる、しかも好きときとるもんですから勉強される。
 どういう素晴らしい教典を見ても、お話を読んでもです。合楽の親先生が説いておられるだけの事を、説いておる宗教家は、一人もないち言うておる。そういう意味で、あなた方は毎朝お参りして、親先生のお話しを頂かれると言う事は、大変なことですよと言うて、繰り返し話されたと言う事です。これは勿論私の力とも思いません。いわゆる金光大神が、神より受けられた尽きぬおかげというのは、そう言う事。
 そして釈迦もキリストも、いうならば知らなかったであろう、説き得ていなかったという所が、金光大神のみ教えに出てくる。合楽のみ教えを頂いておると。成程そうだろうと、皆さんも合点していっていかなければいけません。というほどしにです。いうならば尽きぬおかげ。無尽蔵限りなく頂けれるおかげの元になる所の話が聞けるという事をです。話を聞いて助かる道と言われるが、成程そういう話を頂いてこそ初めて、尽きぬおかげに繋がることが出来るんだというふうに思います。
 同時にお互いが信心をさせて頂いて、受けたおかげを神心となりて、人に丁寧に話をしていくのが、真の道をふんでゆくのぞと。金光大神が教えたことを、違わぬように人に伝えて、真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。それが神になるのぞと。いわゆる私共の信心が、どこまでも生神を目指さなければならない、金光教の信心する者のみんなが、生神を目指しての信心なんだ。
 そこでで私共が生神になる道というのは、私共がおかげを頂いて、しかもそのおかげをです、真心神心を持って人に伝えていく。いうならば今までは、私共は金光教内で頂いてきたことは、お導きお導きと言う事が、神様が一番喜んで下さること。何のお供えが一番と言うても、人間のお供えが一番だという風に聞いてまいりました。けれどもこれではね、私はここんところへぴったり来ないと思う。
 今合楽で言われておる所の、合楽示現活動に参画させて頂くと言う事になって、初めてこの事が言えるのじゃないかと思うです。もちろん私が申しますように、お互いがおかげを受けておるという事実を、それこそ私こそ御道の信心によって助かっておるという自覚に立っての事です、合楽示現という事は。私がおかげを頂いておると言う事をです、人に伝えていくと言う事は、もう合楽の世界です。
 私が助かっておると言う所が極楽なら、その極楽をまた人に伝えていこうという生き方なんです。そこに神の助かりがあるのです。人間が助かると言う事が、神様の助かりなんです。人間の喜びはそのまま神様の喜びなんです。そこで神様と示現活動させて頂く者との交流というものが、本当にお前のおかげで、沢山な人が助かっていく。神の喜びです。その神の喜びがこちら人間氏子、私共の上に帰ってこないはずが無い。それが神になって行くのだ。氏子というならば神と氏子とがです。
 合楽し合う楽しみ合う。喜び合うお礼を言い合う。そう言う様な世界が合楽示現です。そういう素晴らしい内容を持っておるのだからです。神が奇跡を見せ与えてでもです。いわゆる示現活動というのは、神様神仏が、不思議な働きを示し現すことだと言われるようにです。現し私共がその神様の御働きに参画させて貰う。いわゆる預からせて頂く。そういう働きに預からせていただく願いをもって、私共が行くと言う事がです、真の道をふんでゆくという事になるのです。
 これは今の合楽であって、初めて言える事だという風に、今日改めて感じます。随分六十一節も頂いてまいりましたけれども、はぁ今の合楽示現活動に参画させて頂くという、また、参画させていただくほどしのおかげを頂いてという事です。成程それは神様へのお礼になることと同時に、それが神になるのぞと言う道を、ただまっしぐらに進んで行けれることが、私は合楽示現活動に参画すると言う事なんです。だから先ず私共が、おかげを頂かなければならないと言うこと。
 私共が先ず極楽に行かなければならないと言う事。おかげを頂いて、本当に毎日を有難い、勿体ないで過ごさせて頂けれると言う事は。夕べのお月次祭の中にもお話申しましたようにです。吉井の熊谷さんが、言われるように、毎日毎日が、神恩報謝の生活と言う事は、お礼を申し上げる生活。お礼を申し上げる生活という事がです。ただおかげを頂いて有り難うございますと言うて、それが実際の実感がなかったら、それは嘘のお礼であります。結局はです有難くならなければ、御礼は出来んという事です。
 素晴らしいですよね、ここんところは。ただ有り難うございます。今日もおかげ頂きまして有り難うございましただけではいけない。先ず私が有難くならなければいけない。有難くなると言う事が極楽の世界です。有難いと思わなければ御礼。いわゆる神恩報謝のと言う事にならない。そこでです私共が段々信心を分からせて頂いて、どのような中にも有難いと心の底から、有難いなぁ本当に信心も出来んのに、勿体ない事だなぁという心の状態を開かせて頂くと言う事は、ただ自分の思う通り。
 都合の良い事ばっかり起きてくる時に、思う心ではなくて、それとは反対の事の場合であっても、それが神愛であり、神様の御働きであることが、段々分かってくるようになるから、勿体ない事じゃなぁ。痛いけれども有難いというものなんです。叩かれりゃやっぱ痛い。術ない術ないけれども有難い。その有難いというのがお礼になる。そのお礼が、形になって現れてくるのが、人に伝えて行けれる内容である。いわゆる神心となりてというのは、そう言う事だと思う。
 有難い勿体ないという、そのおかげがです、そのおかげを受けておると言う事に気付かせて頂いて、そのおかげを人に伝えてゆくのがです。神様へのお礼になると同時に、神になるとこう言う。神様が本当のお礼を申し上げる所から、神様の喜びがです。こちらへ帰ってきてです。有難くなると言う事でもです、自分で有り難うとなろうと、幾らあせった所で、有難くなれるもんじゃありません。有難くなれるという事は、やはり許されなければなりません。神様に許される。
 そういう有難いという心がです。お礼の心になってくる。成程神へのお礼ぞであると同時にです。それが神になって行くという事も、何か知らん今日この合楽示現活動という事を、ここに取り入れてまいりますと、改めて成程、それが神になるのであろうなあと実感させられます。昨日のお月次祭に、久留米の井上勝代さんですね、姉さんの方がお礼のお届けがありました。四国に、妹さんがおられます。大黒様をあちらで求めて、そして荷造りしたり、送ったりして下さるのはその方なんです。
 川上さんと言います。その方から電話が架かって参りました。とにかく親先生に早くお礼を申し上げてくださいと言う事であった。それは一昨日でしたか、油を積んだ船が衝突してから、あぁいう大事故が起こったことを、テレビ新聞で報道してますね。あの船にほんの、ちょっと前まで、あちらの息子さんが乗っておられたそうです。下船されたその後に、あの事故だったそうです。
 どんな事があっとっても、おかげ頂いとると思わにゃおられん、お礼を申し上げてくれという、お礼のお届けが、昨日ございました。それで私はお月次祭前でしたから、時間がなかったけれども、本当に井上さん素晴らしい事ね。あんた方の弟息子が、この頃東京の三菱重工の爆破の時がありましたね。あの時に地下室に下りたのと、爆発が一緒じゃった。それがその、昨日のお届けをなさった、井上勝代さんの息子さんです。それと言いこれと言いです。
 例えばそういうご神護、そういうご守護も少し言うならば、そういう合楽でお取次ぎをいただいて、お願いをさせて頂いておる。いうなら大坪総一郎が祈っておる願っておる祈りの圏内に、いうならば油の船が衝突してああいう大惨事になった中から、こう引き抜いたようにしておかげを頂いておったり、三菱重工のああいう事故の中にです。そこに居って働いておって、ただ地下室に降りた途端に爆発したというのだから。
 というような、そういう祈りの圏内の中にあって、そういうおかげを受けておるという事がです。井上さんその兄弟だけの事ではない。合楽に御神縁を頂いておる、全ての人達の上にです。それと同じ働きが、あっておるんだと言う事です。形に表れていないだけなんです。目には見えないけれども。目に見える所は、ほんの氷山の一角、そういうすさまじいまでの働きをです。お互いが、銘々頂いておるその頂いておるおかげを、信心が手厚うなってくる事によって日々が、有難い勿体ないと言う事になってくるのです。
 だから信心とは頂いておるおかげを、いよいよ今まで気も付かなかった、当たり前の事のように思うておった事の中にです。当たり前どころではない。そのおかげをおかげと実感させて頂く。そこに有難いと言う事になってくる。その有難いという心があって、初めて、御礼という事が出来るのです。皆さんそれと同じ働きと、おかげを受けておられるのですよ。私の祈りというものがそら、川上さんと井上さんの上にだけ、特別に祈っておると言う事じゃないのです。
 目には見えないけれども、私共が合楽に御神縁を頂いておると言う事は、そういうおかげの中にあると言う事なんです。おかげを受けておると言う事なんです。それを段々信心させて頂いておるとそれが分かってくる。しかもですどこから涌いてくるか分からん有り難さ。信心も出来んのにこのようなおかげを頂いて、有り難いと言う事になってくる。熊谷さんが、昨日言っておられますようにです。前の日に示現活動に、ある所に行かれた。もう、七十四五になられますでしょうか。
 行かれたそのお婆さんが、大変な裕福な生活をなさっておられる。いうなら優雅な生活をなさっておられる。もう七十幾つになって、まぁだ習字のお稽古をなさる。花お茶はもちろんの事。お謡いもなさるお金はどれだけあるか分からん。家などはそれこそもう本当に優雅な家です。私も一遍およばれした事がありますがです。所がこの頃お導きをして、この頃は、あんまりお参りしなさらんから、改めてまたその示現活動に行かれたらです。そのお婆ちゃんが言われるのに。
 熊谷さん私は淋しゅうして、淋しゅうして応えんち言わっしゃった。お婆ちゃま貴方のごとどこを見てもです、とてもとても人では味わう事の出来ないほどしの、いうならば山海の珍味を頂きながら、こういう錦布にまかれながら。こういう素晴らしいお家に住まわせて頂きながら、こういう素晴らしい庭園を毎日眺めながら、好きなお茶をしたり、言うなら、お習字の稽古をしたり、お謡いの稽古をしたり。
 もう自分の思う事が出来ない事がないほどしの事が出来ておられるのに、淋しいと言う事はどうした事でしょうか。もうどれをみても、私達にはお礼を申し上げねばならないことばっかりなのですけれども。さぁここはだから、許されなければ有難いという心にはなれないと言う事が分かりますね皆さん。私たちから見るならはぁちいう極楽じゃろと言うとってもです。心が淋しゅうて淋しゅうて、心がイライラして腹が立ってたまらんというならばです。それはもう地獄です。
 それこそ月の差し込むような、あばら家に住んでおってもです。とにかく有り難うして有り難うして、お礼を申し上げねばおられない心が、一杯募ってくるならばです。それが極楽です。だから合楽で御神縁を頂いて、御教えを頂いて日々信心の稽古をさせて頂いておる人達はです。そこが分かっておるから、先ず自分自身が極楽に行っておる。極楽のおかげを受けておるという自覚に立て。その自覚に立たなければ、合楽示現活動は出来んのだと。自分が先ず極楽。
 これがいうならばこの世の極楽だろうかと思われるようなおかげを受けると言う事。それが形に現れてくるとです。先ず第一薬箱がなくなった。お金に不自由する事はない。第一争いがなくなった。争いのない貧乏のないいうなら病気のない。そういう世界に住まわせて頂くと言う事がまぁこれは具体的な極楽です。同時にその一歩手前には自分自身の心。どういう病気をしておっても、難儀の中にあってもです。自分の心の中に有難い、お礼を申さなければおられない心が生まれてくるならばそれが極楽です。
 言うなら極楽の序の口だ。そういう信心が続いていく限り、必ず薬箱が要らんようになる。争いがなくなる。お金に不自由する様な事なんか、絶対ないと言う様なおかげが、示現されてくるのです。神様が示し現して下さるのです。夕べはお月次祭が終わりましてから、秋永先生達が夫婦で、改めて裏にお礼にやってまいりまして、今度一番下の京子さんが結婚を致しました。
 もうそれこそ話を聞けば聞くほどに、どげん考えたっちゃ神様をね、一から十までの働きの中にあっての事である事を、夫婦でその事を話しに明け暮れておる。まぁ皆さんもその内容をご承知の方は、はぁこれがおかげというとじゃろと言う様に思いなさるだろうと思うんです。そういうふうにです例えば、それは娘をもっと娘を良かとこに嫁いらかす。それはもういうならば、当たり前のような頂方の中にはですね。いわば極楽はないです。どんなに考えたっちゃ、おかげと言わずにおられんねと言う事です。
 それが万事万端の上です。だから同じ娘を結婚させたというだけの事の中でもです。どんなに考えても有難い訳です。有難いからです信心のない者からどもが聞いたら、びっくりするような神様へのお礼もまた出来たと言う事になるのです。それだけいうならば、秋永先生のものなんです。同じ有難いと言うてもです。ほんなこの位一尺ばっかり有難い。ほんな、三尺ばっかり有難い。それをそれこそ抱きしめてです。こうするごと有難かち。同じ好きと言うても、色々あるでしょうが。
 そう言う様にです例えばその有難さのというものが高度になってくる。そこから私はお礼の生活神恩報謝の生活。しかもその神恩報謝の生活をするだけではない。この有難さを誰さんにも分かって貰うたら、あの人にもお伝えさせて頂いて助かってもらったら、と言うのが示現活動です。合楽を示現するのです。段々おかげを頂いてまいりますと、今も申しますようにです。本当に有難いそれこそ有頂天になろうごと有難い。その辺の所を神様は、きちっと抑えて最後に仰っておられます。
 神になりても神より上になるとは思うなと仰っておられます。この辺の所に何て言うですか、そういう有頂天になる程しのおかげを頂きながらもです。謙虚な信心が必要である事が分かります。皆さん皆さんが今有難いと思うておられるおかげをです。もっともっと信心を深めてごらんなさいませ。同じ事柄であるけれどもそれがもっともっと有難うなってまいります。有難うならなければお礼は言われんと言う事です。
 そのお礼を言う事がです合楽示現活動と言う事によって、お礼それが神へのお礼ぞと仰る事だから。愈々合楽示現活動に参画させて頂いてです。しかもそれがです神様の喜びが帰ってくる。助かった人達の喜びが帰ってくる。それが神になるのぞと言う事にまで高められてくるのですから。愈々日々金光大神が神から受けられた。いつまでも尽きぬおかげを話にしておくと言う事を、そのまま合楽では、尽きぬおかげの頂けれるお話を頂き受けておられるのですから。
 愈々それを身に付けその御教えがです。愈々血になり徳になりして、おかげを頂いて神様へのお礼それはそのまま、神になっていくと言う様な、只神様へのお礼だけでそれが神になっていくと言う事に繋がっていかん様なお礼じゃつまらん。それが神になるのぞと言われるが、成程そうであろう自分の心の中を思う時にです。所謂一年一年有り難うなっていく自分を思う時に、この調子でいきゃ生神になれるぞというようなです、信心の輝かしい希望もまた湧いてくるというものです。
 そういう私は信心生活がさせて頂きたい。そういうおかげを頂きたいと思う。私は合楽で、二十五年間。たったこの薄っぺらな、この教典だけに取り組んできて、毎日皆さんに聞いて頂いておるけれども。一遍だって私自身この御理解は前頂いたてんなんてんてん言う御理解が無い。もちろんその御理解の芯になる所ですよ。枝葉の所はそんなに表現力というものは、私は持ちませんから。
 いつも聞いて頂く様な、言葉を使って聞いて頂いておりますけれども、その日その日の、御理解の芯になる所だけはです。幾ら頂いても頂いても、尽きぬおかげを感ずる。尽きぬ話をと言われる、その尽きぬ話を感じる実感するおかげを、日々お互い頂いておる訳でございますから。改めて一つ本気で神様へのお礼と、神になっていけれる信心を進めて行きたいと思いますね。
   どうぞ。